
融 合
クラシック音楽ファンの私自身、彼の紡ぎ出した曲は大好き。
今日は、クラシックの範疇に留まらずポピュラー音楽にも大きな影響・業績を残した、アメリカが生んだ作曲家
ジョージ・ガーシュウィン
George Gershwin
の命日・没後80周年にあたります。
1898年にニューヨークで生まれた彼は、本名をジェイコブ・ガーショヴィッツというロシア系ユダヤ人。
移民の父親がガーシュウィンの兄・アイラに音楽を習わせようと貧しい生活の中ピアノを買い与えたのですが、文学好きだった兄は見向きもせず。
そのアイラの代わりに12歳からピアノを弾くようになったのが、ジョージでした。
※アイラはその後作詞家となり、弟ジョージと組んで多くの名作を世に出したのですから、人の運命は分からないものです。
翌年からピアノや和声を習い始めた彼は、若い頃から歌手のピアノ伴奏者として頭角を現した彼は、21歳の時に『スワニー』のヒットで人気を得ると、それ以降アイラと組んでポピュラーのヒット曲を連発。
しかしポピュラー音楽に限界を感じた彼は、人気者だったにもかかわらずコロンビア大学の音楽科でクラシック音楽を学び直したのです。
そして有名な『ラプソディー・イン・ブルー』を書き上げたのは、1924年。
で、この名曲が出来た経緯が、ちょっと面白いんです。
当時〝キング・オブ・ジャズ〟と謳われたシンフォナニック・ジャズの第一人者ポール・ホワイトマンが、まだあまり知られていなかったジャズを世間に認めてもらおうと一計を案じました。
売れっ子作曲家ガーシュウィンに作曲を依頼した・・・というデマ記事を、新聞に掲載させたのです。
それを耳にしたガーシウィンが抗議をすべく彼に電話をすると、
「もう記事になったんだから・・・。」
と逆に言いくるめられ、ピアノと小規模ジャズ・バンドのために2週間で一気に書き上げたのだそうな。
そして現在私たちが耳にするオーケストレーション版は、『大峡谷』で知られるグローフェが編曲したものなのです。
音楽の垣根を取り払い、クラシックとジャズを融合させたこの名曲は、まさに〝瓢箪から駒〟の如く生まれたんですネ。
ちなみにこの曲名、元は『アメリカン・ラプソディ』だったのですが、兄アイラが『ラプソディー・イン・ブルー』を提案して変更されたのだとか。
兄の文才が、こんなところでも弟を助けたようです。
この曲のヒットで更に注目を集めた彼は、翌1925年には『TIME』誌の表紙を飾りました。
独学でオーケストレーションを学び、『パリのアメリカ人』や『ボギーとベス』など様々な管弦楽曲・ビアノ曲・歌曲を生み出し、将来を嘱望されたガーシュウィンでしたが・・・1937年2月、リハーサル中に指揮台の上で突然倒れそうになり、その後も強い幻臭症状を訴えたり意識障害を発症。
その後更にてんかん症状が酷くなり、6月に脳腫瘍を疑われました。
そして翌7月、右側頭葉に巨大な腫瘍があることが判明し10日に開頭手術を行って腫瘍は摘出されたのですが・・・その翌11日に容体が急変、彼は意識が戻らぬまま天に召されてしまったです。
まだ38歳という若さで・・・。
おそらく現代医学なら救えた偉大な才能を、アメリカは突如失ってしまいました。
『ボレロ』でお馴染みのラヴェルに教えを請おうとした際、そのラヴェルをして
「貴方は既に一流のガーシュウィンなのだから、二流のラヴェルになる必要はない」
とまで言わしめた天才作曲家の冥福を、20世紀を代表する指揮者・作曲家レナード・バーンスタイン自らがピアノを弾いてニューヨーク・フィルを指揮した『ラプソディー・イン・ブルー』を聴きつつ、お祈り致しましょう。
こちらの記事はhttps://ameblo.jp/warmheart2003/entry-12200152052.html?frm=themeより引用させて頂いております。

