
お母さん
今日は、現在の千円紙幣の顔でもあり、日本を代表する医師・細菌学者、
野口 英世 博士
の命日にあたります。
1876(明治9)年に福島県の貧しい農家に長男として生まれた野口氏。 幼い頃に負った左手の酷い火傷にも負けず、必死に勉強した末に医師となり、アメノカに渡って研究を続け、黄熱病の病原体を発見するなど病理学会に多大な貢献をされたことは、既に多くの方がご存知のことでしょう。
子供の頃、何度も野口氏の伝記を読んだ私・・・今は野口氏ご本人のことより、彼を支え続けた母・シカさんにどうしても目が行ってしまいます。(そういう歳になったってことですかネ?)
1歳の時、母シカさんが畑仕事に出て目を離したスキに、ハイハイをして囲炉裏の中に左手を突っ込み、大火傷を負った清作(※英世氏の幼名)。
「我が子のケガは自分の不注意によるもの、指が癒着してくっついてしまった以上農業はできない。 何としても勉学で身を立てさせなければ・・・。」
我が子を学校に行かせる覚悟を決めたシカさんは、学費を稼ぐため以前にも増して働いたそうです。
昼は畑仕事、夜は川でエビを獲って朝それを売りに出る・・・重い荷物を背負って20kmの山道を日々歩いたとか。
しかし我が子が左手のヤケドのせいでいじめられ、学校に行かなくなったことを知ったシカさんは、
「許しておくれ。 火傷をさせてしまったのはお母ちゃんのせいだ。
辛いだろうがここで勉強をやめてしまったらせっかくの苦労も何にもならない。
おまえの勉強する姿を見ることだけが楽しみなんだ。 我慢しておくれ。」
と涙を流して我が子に詫びたのだそうです。
その母の姿を見た英世少年は一念発起、猛勉強を始めて見事に世界的な学者になりました。
<母・シカさんと野口博士>
渡米して研究で多忙を極める野口氏の元に、年老いた母がおぼつかない字で書いた手紙が届きます。
それは、ひたすら最愛の息子に会いたい・・・という、殆どひらがなのみで書かれた母の願いでした。
おまイの。しせ(出世)には。みなたまけ(驚き)ました。
わたくしもよろこんでをりまする。
なかた(中田)のかんのんさまに。さまにねん(毎年)。
よこもり(夜籠り)を。いたしました。
べん京なぼでも(勉強いくらしても)。きりかない。
いぼし(烏帽子:近所の地名)。ほわ(には)こまりをりますか。
おまいか。きたならば。もしわけ(申し訳)かてきましよ。
はるになるト。みなほかいド(北海道)に。いて(行って)しまいます。
わたしも。こころぼそくありまする。
ドカ(どうか)はやく。きてくだされ。
かねを。もろた。こトたれにもきかせません。
それをきかせるトみなのれて(飲まれて)。しまいます。
はやくきてくたされ。
はやくきてくたされ。
はやくきてくたされ。
はやくきてくたされ。
いしよの(一生の)たのみて。ありまする
にし(西)さむいてわ。おかみ(拝み)。
ひかし(東)さむいてわおかみ。しております。
きた(北)さむいてわおかみおります。
みなみ(南)たむいてわおかんておりまする。
ついたち(一日)にわしをたち(塩絶ち)をしております。
ゐ少さま(栄晶様:修験道の僧侶の名前)に。ついたちにわ
おかんてもろておりまする。
なにおわすれても。これわすれません。
さしん(写真)おみるト。いただいておりまする。(神様に捧げるように頂く)
はやくきてくたされ。いつくるトおせて(教えて)くたされ。
これのへんちち(返事を)まちてをりまする。
ねてもねむられません。
<シカさんの書き遺した唯一の手紙>
この手紙を読んだ後・・・友人から送られてきた写真を見て、母の老いて小さくなった姿に愕然とした英世氏は、1915(大正4)年に15年ぶりの帰国を決意。
ノーベル賞候補になった世界的細菌学者の凱旋帰国ということで大歓迎を受けた英世氏は、シカさんを一緒に連れ歩きながら全国各地へ講演旅行をしたそうで・・・行く先々で 「お母さん、お母さん」 と世話を焼いたのだとか。
たった一度の親子水入らずの国内旅行・・・野口母子の心情はいかばかりだったのでしょう。
この3年後、シカさんはスペイン風邪をこじらせ66歳で死去。
母の死に目にも会えぬまま海外で活躍を続けた英世氏は、1928(昭和3)年5月21日・・・自らが研究していた黄熱病に罹患、「私には分からない」 という最後の言葉を残し、51歳の若さでこの世を去ったのです。
もしかしたら英世氏は、天国でお母さんに 「いくら会いたいからって、来るのが早過ぎるべ!」 なんて叱られたのかもしれませんが・・・きっと今でも2人仲良く一緒にいるんでしょうネ。
こちらの記事はhttps://ameblo.jp/warmheart2003/entry-10238696424.html?frm=themeより引用させて頂いております。

