三四郎

2010-09-28 09:09:09
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100年以上に及ぶオリンピックの歴史の中で、日本が獲得した金メダルは夏・冬合わせて132個。 


1人で複数獲得した方もいらっしゃいますが、チームで獲得したものを含めると、優に100名以上の日本人が金メダリストとして脚光を浴びたわけです。


既に何人かは鬼籍に入られていますが、この方ほど悲劇的な最期を遂げた金メダリストはいない、と私は思っています。

1964年・東京五輪において、柔道・重量級で優勝した


 猪 熊  功  氏


〝昭和の三四郎〟といわれた名選手でした。


猪熊氏は1938年に神奈川県横須賀市生まれ。 東京教育大(現・筑波大)在学中の1959年に全日本選手権で優勝、史上初の学生日本一となりました。

その後も好敵手・神永昭夫氏とともに日本柔道界を牽引・・・東京五輪では173cm・86kgと小兵ながら、決勝で自分より30kgも重いカナダ選手を一本背負いで投げ飛ばし、日本国民の期待に応えて見事金メダルを獲得。

              ウォームハート 葬儀屋ナベちゃんの徒然草-猪熊功

翌1965年の世界選手権・無差別級で優勝後に引退した後は、世界柔道連盟の会長となった東海大・松前総長の秘書を務めたり東海大学教授となって山下泰裕氏を指導するなど、柔道界に多大な貢献をされました。


しかしそんな彼の運命を大きく変えたのは、28歳の時に東海大学の系列会社・東海建設に常務として入社したことでした。


柔道の人脈を生かして大手ゼネコンとの資本関係を築き、入社時年商15億だった同社を200億円の中堅ゼネコンに育て上げた猪熊氏は1993年、同社社長に就任。


しかしバブル崩壊後、業績は急速に悪化・・・そして銀行からの融資も打ち切られ、万策尽きた猪熊社長は、会社整理直前に残る資金で社員の給料を支払った後、2001年9月28日に自らの命を絶ったのです。

63歳・・・まだまだこれから、と思われる年齢なのに。

私が猪熊氏の死に関して特別の想いを抱くのは、その2ヶ月程後に出た雑誌に彼の最期の様子が手記として公開されたからでした。

           ウォームハート 葬儀屋ナベちゃんの徒然草-猪熊功

〝遺書公開 猪熊功 「自刃までの2週間」〟と題されたこの手記の著者は、同社社長室長として猪熊氏に最後まで仕えた人物。

そして猪熊氏の自刃の現場に立ち会い、最期を見取った本人なのです。

倒産を免れないと分かった時から、猪熊氏は 「会社を託してくださった松前総長に申し訳が立たない」 と自決を覚悟。


それから約2週間にわたり〝自決を確実に行うための合宿〟を行い、松前総長の遺影写真を飾った社長室で、海軍軍人だったお父上から遺贈された刃渡り40cmの脇差しを自らの首に突き刺し失血死に至る過程は、壮絶の一語に尽きます。

またその間に猪熊氏本人が残した日誌(遺書)は、社長として無念や苦しさ、死に向かう潔さが連綿と記されており、今読み返してみても胸が苦しくなります。

猪熊氏は金メダリスト・スポーツマンである前に、武道家・・・いや、恥を恐れ義を重んじる〝武士〟だったのでしょう。

経営者として、また同じ男性としての生き様を考えさせられる、猪熊氏の身の処し方・・・あらためて悲劇の金メダリスト・〝昭和の三四郎〟のご冥福を、心よりお祈り致します。笑3



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こちらの記事はhttps://ameblo.jp/warmheart2003/entry-10587370731.html?frm=themeより引用させて頂いております。