伯 父

2011-05-08 07:07:07
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全く個人的な話で恐縮ですが、今日は私の伯父・渡辺佐一郎の命日です。


とは言いながら、私はその伯父と面識がありません。 

それもそのはず、彼が亡くなったのは太平洋戦争開戦の約半年前・・・ちょうど70年前でしたから。

佐一郎伯父は、父のちょうど一回り年上・1916(大正5)年生まれ。

父曰く、自分を非常に可愛がってくれた優しい兄だったそうです。

当時の世相を反映し、商家を営む渡辺家の長男でありながら陸軍士官学校を経て浜松陸軍飛行学校に入校、訓練に明け暮れる日々を送っていたとか。

              ウォームハート 葬儀屋ナベちゃんの徒然草-叔父

そして1941(昭和16)年5月8日、教官以下伯父を含めた訓練生5名を乗せた九七式重爆撃機が遠州灘上空を訓練飛行中に、突如天候が急変・・・飛行区域は視界ゼロの濃霧に包まれてしまいます。

当時の訓練機にはレーダーはおろか無線も搭載されていなかったため、状況が分からぬまま視界を確保しようと海面スレスレの超低空飛行を試みたそうですが、左翼が波に触れてしまい機体は海面に叩きつけられ大破。

乗員1名のみが浮いた車輪に捕まり漁船に救助されて奇跡的に一命を取りとめたものの、左後側方銃座にいた24歳の伯父を含め5名が海の藻屑と散ったのです。

(1名が助かったおかげで事故の詳細が判明し、遺族は最期の様子を知り得たのですが・・・その方は亡くなるまで終生僚友の供養を続けたそうです。)

伯父の遺体が発見されたのは事故から2週間後、志摩半島の海岸に打ち上げられていたところを収容されました。

当時の日本軍にはまだ余裕があったようで、伯父の遺骨を引き取った祖父が故郷・上田に戻る際は、そのためだけに客車を一両つけて丁重に送り届けられたとのこと。

駅に到着後、市役所前で盛大な出迎え式が執り行われたことを、当時12歳だった父は今でも鮮明に憶えているとか。

「他の犠牲者には申し訳ないが、渡辺だけは生きて帰って欲しかった。

 彼が操縦していれば、こんなことにはならなかっただろうに・・・。」

合同慰霊祭に参列した祖父母に、他の僚友が社交辞令抜きでそう語ったくらい優秀だったそうですが・・・現在僅かに1点だけ残っている、その伯父の自筆がコレです。(

              ウォームハート 葬儀屋ナベちゃんの徒然草-叔父

「鎌原(※住所) 渡辺佐一郎」 と記されておりますが、驚くべきは伯父が20歳前の筆だということ。驚き顔

私には、逆立ちしても書けない達筆!・・・鋭い眼光・凛々しい顔写真と共に、当時の若者の緊張感・錬度が伝わってきます。

本家の墓所には、渡辺家累代之墓の他に、名前の上に星が浮き彫りにされた佐一郎伯父のためだけの墓石が並んで建立。

子供の頃は、どうして伯父だけ別に墓石があるのか? なんて不思議に思ったものですが・・・今にして思えば、祖父が跡継ぎにと考えていた期待の長男を若くして亡くした深い無念の思いがそうさせたのでしょう。

兄の遺志を継ぐため、軍人になるべく陸軍幼年学校に入学した父でしたが、戦地に赴く前に終戦・・・その幸運(?)のおかげで今、私がこの世に存在しているわけです。


戦争がいかに多くの人財を失い、そしてその何倍もの人々を悲しませる愚かな行為であることを改めて胸に刻み込むと同時に、微力ながらも現在の弛緩した日本の世相に警鐘を鳴らすことを誓いつつ、悲運の死を遂げた伯父の冥福を祈りたいと思います。笑3



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こちらの記事はhttps://ameblo.jp/warmheart2003/entry-10642481979.html?frm=themeより引用させて頂いております。