六文銭

5月7日は、我が故郷・信州が生んだ戦国時代の名将

 真田 信繁 (幸村)

の命日にあたります。 (※講談等で一般的に知られているのは 「幸村」 ですが、本人は 「信繁」 という名を語っていたようです。)

永禄10(1567)年、父・真田昌幸の次男として生まれた信繁。

彼が幼少時の真田家は、仕えていた武田氏の滅亡により織田家に恭順。 

所領を与えられたものの、周囲を囲む上杉・北条・徳川家の傘下に出たり入ったりという不安定な立場だったようで、信繁はその都度人質として居場所を転々とさせられました。

まるで井上靖の小説に取り上げられた、漢の時代の小国・楼蘭の如くですネ。

最終的に豊臣家についた真田家は関ヶ原の戦いで西軍に属しますが、信繁の兄・信之は本多忠勝の娘を妻にした関係で東軍に属したため、一族内で敵対関係となってしまいます。

江戸から上京する秀忠の軍を上田城で足止めし、関ヶ原の本戦に間に合わせなかったことは有名ですが・・・結局西軍は敗北。 信之の必死の取り計らいで昌幸・信繁父子は紀伊国への配流にとどまり、切腹を免れます。

10年後に昌幸が死去し、その翌年に信繁は出家。 しかし徳川・豊臣両家の関係が悪化し、豊臣家からの参戦要請を受けると、信繁は再び山を降ります。

それまで父・昌幸の影に隠れて目立たなかった信繁でしたが、大阪冬の陣では大きな戦功を挙げ、その名を一気に高めることとなります。

その働きを見て、徳川家康は 「一万石を与える」 ことを条件に寝返りを打診しますが、信繁は拒否。 次に家康は 「信濃一国を与える」 と条件を釣り上げましたが、

「この信繁、一万石では不忠者にならぬが、一国では不忠者になるとお思いか!」

と言って再びはねつけ、その後も一貫して豊臣家への忠誠を貫いたのです。

元和元(1615)年の大阪夏の陣でも信繁は徳川軍を苦しめ、一時は家康の本陣に攻め込んで馬印を倒すまで善戦・・・一時追い詰められた家康は自害を覚悟した程だった、と伝えられています。

しかし多勢に無勢、数度にわたる決死の突撃で真田軍は全滅・・・敗走途中、安居神社の境内で敵に首を取らせたと伝えられています。 享年49。

その翌日に大阪城は落城。 

淀君・豊臣秀頼母子は自害して果て、豊臣家は滅亡しました。

                ウォームハート 葬儀屋ナベちゃんの徒然草-六文銭

真田家の家紋は 『六文銭』。 いわゆる 「三途の川の渡し賃」 ですが、これを旗印にすることで仏のために命を惜しまず・・・〝不惜身命〟の気概を顕わしたといわれています。

天下人・家康をも恐れさせた信繁には、講談等で語られる猿飛佐助・霧隠才蔵らの真田十勇士と共に、豪放磊落なイメージがありますが・・・意外にもその人柄は柔和で辛抱強い、物静かな武将だったとか。

最後まで主君に忠誠を誓った、静かなる男・・・だからこそ、後年講談等を通して庶民に愛され続けたのでしょう。

自分の都合だけで離党・復党を平気でするような政治家には特に見習ってもらいたい、腹の据わった武将だと思いませんか?あせあせ


             

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