敵 役

12月14日といえば、日本人なら皆さんご存じの 『赤穂浪士討ち入りの日』。


今から300年以上前、1702年の同日深夜、大石内蔵助以下四十七士が邸内討ち入り、見事主君の仇を討ったわけですが・・・ということは、

 吉良 上野介(義央)


の命日でもあるわけです。

(※厳密にいえば、翌15日ですが。)


今回はすっかりヒール役(?)となってしまった、この老人にスポットを当ててみましょう。


1641(寛永18)年に高家旗本・吉良義冬の嫡男として生まれた上野介は、11歳にして将軍・家綱に拝謁、16歳の時に出羽米沢藩主・上杉綱勝の妹と結婚。


翌年父と共に江戸城に出自すると、その3年後には幕府の使いの1人として上洛し天皇に謁見。


そして22歳の時、2回目の上洛の際には従四位上を賜っており、以後生涯に24回も上洛を果たした彼は、使者職として幕府から厚い信頼を得ていたことが伺えます。


          ウォームハート 葬儀屋ナベちゃんの徒然草-吉良上野介

父の死去により28歳で家督を相続した上野介は順調に昇進を果たし、41歳で高家肝煎 (※現在でいえば儀典長) に就任。


しかし1701(元禄14)年、2度目の饗応役を務めることとなった播州赤穂藩主・浅野長矩と作法を巡ってトラブルとなり、同年3月14日に江戸城中・松の廊下で切りつけられる刃傷事件が発生。


激怒した将軍・綱吉の命により加害者・浅野長矩は即刻切腹させられましたが、一方の被害者・上野介も夏には郊外の本所旗本屋敷に所換え。


この住居移転命令は幕府が仇討ちをさせやすくした、との説があるのですが・・・結果的に討ち入りは成功、上野介は首を獲られてしまいます。


『忠臣蔵』 では、完全な憎まれ役の上野介ですが・・・領地である三河国幡豆郡 (現在の愛知県幡州郡) では、黄金堤の建設による治水や新田開発などで実績を上げ、地元民には慕われていたといいます。


ただし、実際に彼が領地に入った形跡は殆どないんですけどネ。


現代でも、中央政界でバッシングされた国会議員でも地元に帰れば擁護されますから、それと同じ感情があったのかもしれません。


彼に関しては、その他にも〝イビリ〟をしていたという資料が残されていますが、これらには彼の死後書かれたものもあり、信憑性が高いとはいえません。


しかしそういう物が数々残されていることからも、彼が決して好かれていた存在でないことは確かでしょう。


名家の出であり、公家との関わりが深いことで人一倍プライドが高かったであろう〝男版・お局様〟と、遺伝的に癇癪持ちだった田舎の若殿様・・・この最悪ともいえる取り合わせでは、衝突は時間の問題だったのかもしれません。


播州赤穂藩もお家再興はなりませんでしたが、被害者であるはずの吉良家にとっても一連の事件は大きな痛手となりました。


上野介の実孫で家督を引き継いでいた吉良左兵衛義周は、討ち入りの際自ら赤穂藩士と刀を交え、負傷して気絶するまで戦ったそうですが、上野介の命を救えなかったことで 「当夜の振る舞いよろしからず」 と領地を没収され、信州・諏訪安芸守にお預けの身に。


しかも非常に冷遇されたとのことで、討ち入りから僅か3年余りの後、弱冠21歳で没したとのこと。


因果応報・・・他人をイジメると必ずその報いが我が身に返ってくる事を、吉良家の運命を以て知るべきですネ。うー



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こちらの記事はhttps://ameblo.jp/warmheart2003/entry-11007580992.html?frm=themeより引用させて頂いております。