負けてたまるか


スポーツに燃えていた小・中学生時代の私・・・その当時最も影響を受けた人物といえば、間違いなくこの方だったでしょう。


 松平 康隆 氏


このミュンヘン五輪・男子バレーボールで日本初の金メダルをもたらした伝説的名監督が大晦日に81歳で亡くられていた・・・という昨日の報道に、青春時代の思い出がひとつ消えたような悲しい思いでいっぱいです。


松平氏は1930年東京都生まれ。


慶応義塾大学法学部を卒業した我が先輩は日本鋼管に入社し、監督兼任の選手として活躍するなどした後、1965年全日本の監督に就任。


その当時は東京オリンピックで日本女子バレーが金メダルを獲得、〝東洋の魔女〟といわれ一世を風靡していました。


同じ東京五輪で銅メダル、次のメキシコ五輪で銀メダルを獲得しながらも女子バレーの影に隠れていた男子バレーを、如何にして表舞台に立たせるか? ここが松平監督の真骨頂でした。


今でいう長身・イケメンの選手・・・〝ビッグ3〟といわれた身長190cmを超える森田・大古・横山のアタック陣や、世界一のセッター・猫田という有能な選手たちを自らの眼力で集め、斉藤コーチらが独創的なトレーニングを導入して彼らのフィジカル面をレベルアップ。


そんな練習風景を全て公開し、また 『ミュンヘンへの道』 というテレビ番組を制作指揮したばかりかスポンサーも集めて放映させ、その人気を全国区にしたのも松下監督の戦略でした。


選手にニックネームをつけるなどマスメディアを利用して国民的バックアップに成功した、アマチュアスポーツ界では画期的・・・おそらく最初の事例だったと思います。


当時バレーではなくバスケット部に所属していた私もすっかりこの番組にハマり、その中から練習法のヒントをいくつかこの番組から得たことを憶えています。


そして金メダル獲得の期待が国内で最高潮に達した中で迎えた1972年のミュンヘン五輪。


順調に予選を突破したものの、準決勝の対ブルガリア戦では2セット連取され、第3セットもリードを許すという絶体絶命のピンチ。


しかしそこからベテラン南・中村両選手を起用してゲームの流れを変え、奇跡の大逆転勝利を収めたこの試合は、私が観戦したバレーボール試合では文句なく過去最高のゲーム。


その勢いを駆って決勝戦の対東ドイツ戦も逆転勝ち・・・公約通りの金メダル獲得は、お見事の一言でした。


              ウォームハート 葬儀屋ナベちゃんの徒然草-松平康隆

監督退任後もバレーのテレビ中継では解説を務め、今では恒例となっている〝春の高校バレーボール大会〟を創設するなど、日本バレーにおける松下氏の貢献は、計り知れません。


1998年に日本人初のバレーボール殿堂入りしたのは、当然でしょう。

松平氏の座右の銘であり、中学時代私が何度も読み返した著作の題名にもなった 〝負けてたまるか〟 は、「負けてたまるかと静かに自分に言い聞かせなさい。」 というお母様の教えから取ったもの。


この言葉・・・バレーボール界に限らず、今年の日本に必要な合い言葉ではないでしょうか。


今は小学校5年生の時に不慮の事故で亡くなった息子さんや盟友・猫田選手や南選手らと、天国で久しぶりの再会を果たしていることでしょう。


低い身長をガッツと知恵で補い、スポーツ小僧だった私に夢と興奮を与えてくれた智将・松平氏のご冥福を、心よりお祈り申し上げます。笑3



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こちらの記事はhttps://ameblo.jp/warmheart2003/entry-11127448140.html?frm=themeより引用させて頂いております。