
闘 争
多くの方が、海外旅行や出張にお出かけにる際に利用されたであろう、
『成田国際空港』
この〝空の表玄関〟が開港したのが、今から33年前の今日・1978年5月20日のことでした。
若い方にとってはバカンスに出かける拠点・・・ウキウキした気分で行かれると思いますが、私がこの空港に足を踏み入れるたびに頭を過るのは、〝闘争〟と〝泥沼〟の歴史です。
1960年代に入って、旅客機の大型・ジェット化に伴い、それまで国際空港として利用されていた羽田空港が手狭に。
拡張工事が諸事情により難しいため、1962年に新空港建設を閣議決定。
紆余曲折の末、宮内庁御料牧場を含めた成田市三里塚地区に白羽の矢が立ちました。
1966年7月に新東京国際空港公団が設立され、建設に向かって計画は進行していきますが、地元農民らが猛反発。
反対派同盟と機動隊の衝突は凄惨を極め、多数の死者・重傷者が出ました。
この紛争の中で、私が強烈に憶えている言葉・・・それは、「強制代執行」。
現在では殆ど耳にしない単語ですが、法律に基づき国側が強制的に民間所有地を徴収するというもの。
現在のように個人の権利が尊重される時代には、考えにくいことです。
この激しい消耗戦の果て、結局当初の計画では3本作られるはずだった滑走路は僅か1本のみ、燃料のパイプラインすら貫通していない状態での運用を余儀なくされ、しかも当初の開港予定日直前に過激派の襲撃によって管制塔を破壊され、2ヶ月遅れるという恥辱を受けた末のオープンでした。
今でこそ様々なアクセスがありますが、当初は京成スカイライナーくらい。
20年以上前、私は青森支店勤務時にハワイへのゴルフ・ツアーを自ら企画したのですが、ホノルルから成田空港までが8時間、成田空港から青森駅まで同じ8時間かかった時は、その接続の不便さに
(なんでフライト時間と国内移動時間が一緒なの?)
と、何とも言えぬ疲労感を抱いたものでした。
開港後もゲリラ活動は続き、現在でも機動隊員の姿をゲート周辺で見かける成田空港ですが、現在は羽田空港が24時間営業化、再び国際ハブ空港として拡張利用されようとしていることを考えると、
(あの血みどろの紛争は、何のためだったのか・・・?)
という思いを禁じ得ません。
これからの航空行政がどうなっていくのか?
再びあの成田闘争が繰り返されるとは思いませんが、長期的視野に立たない行政の対応を見ていると、不安を払拭できない私です。
こちらの記事はhttps://ameblo.jp/warmheart2003/entry-10802079656.html?frm=themeより引用させて頂いております。

