限 界

一昨日、遂に裁判員裁判で初の死刑判決が出されました。

被害者を生きたまま電動ノコギリで切断するという、「これで極刑が回避されるなら、今後死刑判決が出されるケースがあるのか」 と検察側が主張するのも頷ける、凄惨な殺人を犯した被疑者に対して下された極刑判断。


しかし一般人である裁判員の方々の記者会見での発言からは、やはり人の命を奪う判断の重さ・苦しさが伝わってきます。

裁判員裁判において死刑判決が出されたことに大きな意味があった、と私は評価します・・・が、それ以上に驚いたのは判決文朗読の最後に裁判長から発せられた言葉。

「裁判所としては、控訴を申し立てることを勧めたい。」

何故かこの発言を〝異例〟とだけ伝えて、批判をしないマスメディアが殆ど。

しかし世の中には思っても決して口にしてはいけないことってあると思うのですが、当該発言はまさにソレではないでしょうか?

裁判員裁判は、裁判官3名・裁判員6名による合議制で判決が出されますが、上記発言はその合議においてかなりの混乱や意見の相違があったことを伺わせます。

その中で導き出された判断を、裁判長自身が自信を持って下していない、あるいは時間切れで十分審理が尽くされていない、と自ら認めたに等しい発言といえましょう。

これでは何度も逡巡し涙したという裁判員の判断価値が軽く、あるいは無くなってしまいます。

             ウォームハート 葬儀屋ナベちゃんの徒然草-裁判員裁判

もしこのような発言を行うならば、裁判官・裁判員の審理内容を公開しないと、検察・弁護側双方に不信感・不満感を残すでしょう。 


これを聞いた被告側弁護士が戸惑うのも、無理はありません。


司法機関が当該発言を問題視しないようであれば、裁判員制度そのものを自らが否定することになるのでは?


今月初めに判決が注目された 「耳かき店員殺害事件」 での判決、及び今回の裁判官発言は、裁判員制度の限界を示唆しているように感じます。


被疑者が犯行を自供し、しかも凄惨な手口の場合でも逡巡するのですから、まして昨日死刑求刑があった鹿児島の夫婦殺害事件のように犯人が全面否認しているケースなど複雑な事例では、裁判員の精神的負担が私たち部外者の想像する以上のものであることは明らかでしょう。

「裁判員裁判によって今後死刑判決が減っていくとすれば、それを一般市民の判断として尊重すべき」 と語る専門家がいますが、私はその意見に異を唱えます。


第三者の立場では 「死刑やむなし」 と思える事例でも、いざ自分が裁判員となって人の命を奪う判断を迫られれば、多くの場合それを躊躇する傾向が強いことは、これまでの事例で明らか・・・そしてその主たる理由は 「自分が直接手を下したくない」 というごく普通の感情が排除し切れないから、と思慮せざるを得ません

『国民が司法参加することにより、市民が持つ日常感覚や常識を裁判に反映すること』 が裁判員裁判の主旨であったはずなのに、厳罰化を望む傾向が強まっている世情に反して逆の判決が下される傾向にあるのは、あまりに皮肉な制度・・・と言ったら、言い過ぎでしょうか?うー

このままの状況が変わらないようであれば、2013年5月以降に裁判員制度の見直しは避けられないでしょう。

その時の法務大臣が、「分からないことがあれば 『個別の事案については発言を差し控えます』 と言っておけばいい」 等とタワケた事を言い放つ御仁でないことを祈りますが・・・。

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こちらの記事はhttps://ameblo.jp/warmheart2003/entry-10709519820.html?frm=themeより引用させて頂いております。