42番


今日・10月24日は、アメリカ野球史にその名を永遠に刻むであろう〝歴史的選手〟の命日にあたります。

その人の名は、


ジャック・ルーズベルト・“ジャッキー”・ロビンソン

   (Jack RooseveltJackie Robinson

1890年頃から有色人種排除を決したメジャー・リーグに、初めてアフリカ系アメリカ人選手として登録された名選手です。

1919年にジョージア州で5人兄弟の末っ子として生まれたジャッキーは、生後半年で父親が蒸発したために貧しい生活を強いられます。

しかし兄が陸上200m走でオリンピックの銀メダリストになる程優れた運動神経を持つロビンソン一家の中で、彼自身も素晴らしい身体能力を発揮・・・高校・大学と複数のスポーツで奨学金を受けて進学します。

しかし 「黒人にとって学問は就職に役立たない」 とUCLAを中退、当初はフットボールのセミプロチームに所属。

1942年に徴兵され軍隊入り。 少尉になった後、1944年に名誉除隊。

翌1945年、ジャッキーはニグロ・リーグのチームと契約、チーム最高打率を残しオールスターにも選出されるなど活躍しましたが、ここで彼の運命を大きく変える2人の人物が野球界に登場します。

              ウォームハート 葬儀屋ナベちゃんの徒然草-ジャッキー・ロビンソン

その一人は、ブランチ・リッチー・・・元メジャー・リーガーで監督も経験し、大卒で一時期弁護士もしたインテリでした。

ブルックリン・ドジャーズの総支配人だった友人が徴兵されたため、同チームの社長兼GMとして招かれた彼は、戦力としてアフリカ系アメリカ人の身体能力に注目し、ドジャーズ傘下のマイナーリーグに多くの黒人選手を集めます。

(ドジャーズは、野茂投手をはじめ非アメリカ人選手を他チームに先駆けて積極的に招いた球団・・・やはり革新的なチームカラーは脈々と現在に至るまで受け継がれているのかもしれません。)


その中の1人として契約を交わしたのがジャッキーでした。

(ちなみに、リッチーGMにジャッキーを紹介したのが、数年前にイチローに破られるまでシーズン最多安打記録保持者だった、当時ドジャースのスカウトをしていたジョージ・シスラーだったそうです。)


1945年秋にマイナー契約をしたジャッキーは翌年大活躍。 

打率・打点の2冠を獲得、チームも優勝を果たします。

そして翌1947年4月、ドジャースは彼のメジャー昇格を発表するのですが、ここでもう一人の人物が大きな役割を果たします。

それは、2年前からメジャーリーグのコミッショナーを務めていた〝ハッピー〟・チャンドラー

元上院議員だった彼はドジャース以外の全チームが黒人選手の昇格に反対、中には試合のボイコットさえ辞さない強硬な態度を打ち出したことに強く反発。

ボイコットをした場合は逆に出場停止処分を課すと言明し、ドジャースを支持したのです。

シーズン当初はチームメイトにさえ彼とプレーすることを嫌がる者もいたそうですが、ジャッキーの紳士的な態度に徐々にシコリは消え・・・結局彼はチームの優勝に大きく貢献、新人王に輝きます。

結局彼は10年にわたりドジャースでプレーし、リーグMVP1回、首位打者1回、盗塁王2回、オールスター6年連続出場という輝かしい戦績を残しました。

1956年のシーズン終了後、トレード話が持ちあがると、「ドジャーズ以外でプレーする気はない」 と引退。 その後は公民権運動に参加するなど、黒人の地位向上に尽力。

1972年10月24日、自宅で53歳の若さで亡くなりましたが、その後も夫人が 『ジャッキー・ロビンソン財団』 を設立。 この財団はハンク・アーロン、ウィリー・ロイズなどの有力黒人選手のメジャーデビューに大きく貢献したのです。


ジャッキーがメジャー・デビューを果たした4月15日には、希望するメジャーリーガーが彼の背番号「42」をつけてプレーすることをご存じの方も多いはず。

してこの背番号 は、ドジャーズに限らず全球団の永久欠番にすることが1997年に決定しています。

日本では〝しに〟という語呂合わせで嫌われていますが、来日する外人選手・・・特に黒人選手にすれば、背番号42をつけることはむしろ名誉なことなんですネ。

メジャーリーグ・・・いや、プロスポーツの歴史を変えた名選手のご冥福をお祈り致します。笑3



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こちらの記事はhttps://ameblo.jp/warmheart2003/entry-10594055674.html?frm=themeより引用させて頂いております。