外 交

2008-06-03 07:05:25
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先日、福田首相がアフリカ諸国約40ヶ国の首脳と3日間で会談を行う・・・という、めまぐるしい「外交」を繰り広げました。

中国がアフリカ諸国に影響力を強めていることを警戒して、日本の存在感をアピールしようという目論見だったようですが、一国あたり約15分の会談時間・・・通訳を介すことを考えれば実質7,8分の会談について、相手国の首脳は、どういう感情を抱いたのでしょうかネ?

アフリカ諸国に対して多額の資金を拠出している中国。その中国に対して、目が眩むようなODA資金を提供しているのも日本・・・。あせる

私のような一小市民には、外務省が何を考えているのか・・・良くわからないんですょネ~。

そんな日本の “本格的な外交” は155年前の今日から始まった・・・といえるかもしれません。

嘉永6年6月3日(※新暦では1853年7月8日)浦賀にペリー司令長官率いる米海軍東インド艦隊の蒸気船4隻が突如として来航しました。


今まで来航した外国船はいずれも「帆船」だったため、もうもうと黒煙を上げながら外輪を回転させ、轟音を響かせる大砲を撃ち放つ(防水のためタールを塗った)「黒船」は、さぞ人々のド肝を抜いたことでしょう。


   〝太平の眠りをさます上喜撰

            たった四杯で夜も寝られず〟


「蒸気船」とお茶の「上喜撰」をかけたこの狂言は、あまりにも有名です。


          黒船

                     <黒船来航図>

当時アメリカは、英・仏の東南アジアと中国大陸(清)に対して熾烈な植民地獲得競争を繰り広げており、それに乗り遅れたアメリカは、太平洋航路を確立してこれに対抗する必要があったようです。


ペリーは開国を促す大統領親書を幕府に手渡し、混乱の極にあった幕府からの「返答に1年の猶予を」という申し出を認め、10日後悠々と去っていったのだそうです。


このペリー来航により、幕府の弱体化が一層顕著となりました。


私は個人的に、この来航に始まり今日に至るまでの一連のアメリカの外交政策に、したたかさを感じるのです。


実はこの黒船来航の7年前、1846年にビッドルという提督が帆船2隻で浦賀に来航し、通商を要求しているのですが、この時は拒否されてあっさり引き下がっているのです。


この失敗をふまえて、ペリー提督はシーボルトの「日本」など約40冊の日本関連の書籍を入手し、徹底的に日本(人)を研究したようです。


その結果(?)、琉球王国上陸から浦賀来航に至るまで、明らかに日本を威嚇する行動に出ています。


また、1年の猶予という約束にも関わらず、香港で「将軍家慶の死亡」を知るや、半年後の1854年1月に再び浦賀に来航。一気に3月3日に日米和親条約の締結に成功、200年以上続いた日本の鎖国を解除してしまいました。


(※この後アメリカは1861年から南北戦争に突入したために外交政策では他の西欧諸国から遅れをとることになります。これはある意味日本にとっては幸運だったのかもしれません。)


しかし20世紀に入ると、ルーズベルト大統領は軍部に対して諸外国との戦争シュミレーションを立案させます。


国毎に色をつけて分析を進める中、日本は橙色に色分けされたそうで、これが「オレンジ計画」といわれる所以となるわけです。(この計画がやがては1939年の「レインボープラン」へと移行していくわけですが・・・。)


ハワイを拠点とする海軍基地を建設して日本の太平洋方面の侵攻を食い止め、やがては日本の経済封鎖へ・・・等々、あらゆるケースを想定して計画が練られていたようです。


してみると、太平洋戦争は “アメリカの思惑” に乗せられるような形で「始めさせられた」感が拭えません。


徹底的に情報を収集し相手国の分析をした上で、早期からあらゆる可能性を想定し計画を練り上げていく外交姿勢・・・自国の情報はツツヌケ状態で、なおかつ相手の顔色を伺いながらの「弱腰外交」を続けるどこかの国とは、どうもレベルが違うように思えてならないのですが・・・。うー

こちらの記事はhttps://ameblo.jp/warmheart2003/entry-10098470701.html?frm=themeより引用させて頂いております。