
大空襲
今から63年前の今日、「東京大空襲」があったことをご存知の方も多いことでしょう。 (若い方はどうなのかなぁ、日本史で教えているんだろうか・・・?)
戦時中、米軍による延べ100回以上にわたった東京空襲の内、最も甚大な被害をもたらしたこの日の空襲は、10日午前0時過ぎから、1機平均6トンの(日本の木造家屋により大きなダメージを与えるべく開発された)焼夷弾を搭載した300機以上のB29爆撃機により、深川・浅草を中心とした下町地区を2時間以上に渡って絨毯爆撃されたものでした。
「3月10日」は日露戦争以降、日本では「陸軍記念日」だったそうで、一説には日本の気力を削ぐため、あえてこの日が選ばれたともいわれているこの空爆。
被害は、
死 者・・・8万人以上(一説には10万人以上)
負 傷 者・・・約11万人以上
焼失家屋・・・約27万8千戸
被災者数・・・100万人以上
焼失面積・・・約41k㎡(東京ドームのグラウンド3,000面以上!)
にのぼったそうです。
毎年、マスコミは原爆記念日ほど大きくこの大空襲に関しては報道していないようです。
しかし、被害の規模は「広島」・「長崎」の原爆投下に匹敵するこの『大空襲』を、平和を願う日本国民として私たちは決して忘れてはならないと思うのです。
・・・以下に、当時学徒兵として、10万人の遺体の処理作業についておられた須田卓雄氏が、1970年12月29日付朝日新聞紙上に発表された『体験談』をご紹介致します。
昭和二十年三月十日の(東京)大空襲から三日目か、四日目であったか、私の脳裏に鮮明に残っている一つの情景がある。
永代橋から深川木場方面の死体取り片付け作業に従事していた私は、無数とも思われる程の遺体に慣れて、一遺体ごとに手を合わせるものの、初めに感じていた異臭にも、焼けただれた皮膚の無惨さにも、さして驚くこともなくなっていた。
午後も夕方近く、路地と見られる所で発見した遺体の異様な姿態に不審を覚えた。
頭髪が焼けこげ、着物が焼けて火傷の皮膚があらわなことはいずれとも変りはなかったが、倒壊物の下敷きになった方の他はうつ伏せか、横かがみ、仰向きがすべてであったのに、その遺体のみは、地面に顔をつけてうずくまっていた。
着衣から女性と見分けられたが、なぜこうした形で死んだのか。
その人は赤ちゃんを抱えていた。
さらに、その下には大きな穴が掘られていた。
母と思われる人の十本の指には血と泥がこびりつき、つめは一つもなかった。
どこからか来て、もはやと覚悟して、指で固い地面を掘り、赤ちゃんを入れ、その上におおいかぶさって、火を防ぎ、わが子の生命を守ろうとしたのであろう。
赤ちゃんの着物はすこしも焼けていなかった。
小さなかわいいきれいな両手が母の乳房の一つをつかんでいた。
だが、煙のためかその赤ちゃんもすでに息をしていなかった。
わたしの周囲には十人余りの友人がいたが、だれも無言であった。どの顔も涙で汚れゆがんでいた。
一人がそっとその場をはなれ、地面にはう破裂した水道管からちょろちょろこぼれるような水で手ぬぐいをぬらしてきて、母親の黒ずんだ顔を丁寧にふいた。
若い顔がそこに現れた。
ひどい火傷を負いながらも、息の出来ない煙に巻かれながらも、苦痛の表情は見られなかった。
これは、いったいなぜだろう。美しい顔であった。
人間の愛を表現する顔であったのか。
だれかがいった。
「花があったらなあ――」
あたりは、はるか彼方まで、焼け野原が続いていた。
私たちは、数え十九才の学徒兵であった。
あらためて、この空襲により尊い命を落とされた(その殆どが非戦闘員であった)犠牲者のご冥福を、心よりお祈り致します。
(-人-) 合掌。
最後に、この『東京大空襲』を指揮したカーチス・ルメイ少将に対し、日本政府が1964年(昭和39年)に、「航空自衛隊の育成に貢献した」という理由で勲一等旭日大綬章を授与したことを、付記しておきます。
こちらの記事はhttps://ameblo.jp/warmheart2003/entry-10078674277.html?frm=themeより引用させて頂いております。

