
家 臣
皆さんは、江戸城を築いた人は誰か・・・ご存知ですか?
そう、太田道灌です。 これは結構ご存知の方は多いでしょう。
では、この太田道灌ってどんな人だったのか?・・・これ、意外と知られていないのではないでしょうか。
実は今日・7月26日は、彼の命日・・・しかも〝謀殺〟された日なのです。
太田道灌(資長)は、室町時代の1431年、関東管領の一族・扇谷上杉家の有能な家宰(筆頭家老みたいなもの)であった、源氏の流れを汲む太田家・資清の子として生まれました。
幼少の頃から非常に優秀だったようで、父親はそのあまりの才気ぶりに、逆にわが子の将来を心配するほどだったようです。
15歳で元服し、25歳にして父から家督を相続すると、傍流だった主家・扇谷上杉家を家臣として支えたのです。
あの広大な江戸城を築いたとはいえ、彼は「殿様」ではなかったのです。
<太田道灌像 伊勢原市 大慈寺 蔵>
道灌は、房総方面の有力な武将であった千葉氏を抑えるため、両者の境界にあたる利根川流域に防護のための築城が必要となり、江戸城を築いたようです。
江戸城が完成し、道灌が居を構えたのが1457年、弱冠26歳の時だったと伝えられています。
その後彼の活躍により、扇谷上杉家の勢力は増す一方となりましたが、やがて彼のあまりの有能ぶりに、「下克上」を恐れた主君・上杉定正が企てたのか、道灌は文明18年7月26日(1486年8月25日)、招かれた定正の邸宅での入浴時に襲われ、暗殺されてしまったのです。
享年55歳でした。
〝有能すぎた部下〟の悲哀を感じざるを得ません。
余談ですが・・・この約一世紀後、豊臣秀吉に仕えた名軍師・黒田官兵衛は、主君・秀吉が自分の力量の高さを買い、「ワシの次に天下を取るのは官兵衛よ」と家臣に発言したことを聞くや、44歳で家督を譲り隠居してしまったのだそうです。
もしかしたら官兵衛は、この太田道灌の末路を知っていたのかもしれません。
ところで、道灌の数あるエピソードの中で私が最も好きなのは、世に言う
『山吹伝説』
ある日道灌が父・資清を訪ねて越生の地に来た際、突然の雨に遭い、農家で蓑を借りようと立ち寄った。その時応対した娘が黙って一輪の山吹の花を差し出した。
道灌は蓑を借りられず内心腹立たしかったのだが、後日家臣から
「それは後拾遺和歌集の『七重八重 花は咲けども 山吹の 実のひとつだに なきぞ悲しき』という兼明天皇の歌に掛けて、家が貧しく蓑(みの)ひとつ持っていないことを奥ゆかしく答えたのでしょう」
と教わり、自らの無知を恥じた道灌は、それ以後歌道に励んだという・・・。
こんな素直な心と謙虚さを持ちたい・・・
そういう、実のある人間になりたいものです。
こちらの記事はhttps://ameblo.jp/warmheart2003/entry-10117096283.html?frm=themeより引用させて頂いております。

