少 年

う~ん・・・星野ジャパン、残念でした。泣き1


何だかんだ言っても、藤川・岩瀬が打たれたらしょうがないでしょう。


気持ちを切り替えて、是非アメリカとの3位決定戦を制し、銅メダルを取って欲しいですネ。


頑張れ、ニッポンビックリマーク


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さて、今から140年前の昔・・・慶應4(1868)年の今日・8月23日は、あの〝白虎隊〟の少年隊士19名が自害して果てた「悲運の日」なのです。

当時勃発した戊辰戦争では、会津藩は幕府方と見做され、新政府軍の敵として攻撃を受けることとなりました。


会津藩は年齢によって玄武隊・青龍隊・朱雀隊などに分けて組織しており、白虎隊は15~17歳の若者によって組織された「予備兵力」でした。


しかし圧倒的な兵力と装備を持つ政府軍の前に会津軍は追い込まれ、遂に白虎隊・士中二番隊に登城召集がかかります。

既に父や兄が戦場に出ていた隊員の一人・飯沼貞吉少年も、妹・弟を残して出陣となるその時、彼の母親は、

「お殿様のためにお前の命を捧げる時がやってきました。日頃の父上の教えをよく守って、戦場に臨んだら決して卑怯なことをしてはなりませぬ。」

と戒め、息子を送り出したのだとか・・・。


年端行かぬ我が子を戦地に送り出す母親の気持ち・・・察するに余りあります。泣き1

しかし二番隊は翌23日、戸ノ口原の戦いで大打撃を受け郊外の飯盛山に敗走。

その途中、命がけの戦闘で疲労の極にあった彼らは、山の中腹から見えた市内を覆う火災を、若松城の落城と〝勘違い〟してしまい、「もはやこれまで」と、その場にいた20名が自刃してしまったのです。

(※TVドラマ等では、白虎隊が全滅したかのように描かれていますが、実際は300名近い隊員がその後の明治時代を生き抜いています。)

                飯沼貞吉

                   <晩年の飯沼貞吉氏>


しかし前出の飯沼少年だけは、喉に突き立てた刃が骨に当たって絶命することなく、通りかかった女性に介抱され、生き延びることが出来ました。その後は電信技士として日清戦争に従軍するなどしたそうです。

この〝白虎隊の悲劇〟は、晩年飯沼氏がその重い口を開いたことにより、史実として人々の知るところとなったそうです。


飯沼氏は1931年、78歳で天寿を全うし、遺骨は仙台市内の寺に葬られました。


その後、彼の遺骨が飯盛山に眠る同志隊員のそばに建墓・分骨されたのが、1957年に行われた「戊辰戦争後九十年祭」の時だったそうです。


史実を詳らかにしたにも拘わらず、仲間と離れ一人で26年間も仙台の地に眠っていた飯沼氏の胸中はいかばかりであったのでしょう・・・。笑3




こちらの記事はhttps://ameblo.jp/warmheart2003/entry-10126391271.html?frm=themeより引用させて頂いております。