【拡散希望】 島 守

以前拙ブログでは、大東亜戦争末期に多くの沖縄県民を疎開させて生命を救った島田叡(あきら)知事について記事にしました。

 


そして今日は、もう一人皆さんに知っていただきたい人物・・・彼と共に多くの沖縄県民救出に尽力し、島田知事と同じく今から74年前の今日消息を絶った

 荒井 退造 沖縄県警察部長

についてご紹介したいと思います。

       

 

荒井部長は1900(明治33)年、現在の宇都宮にある農家の次男として生まれた栃木県人。

父親は農業を継がせたかったようですが、小学校での成績が常時1,2番と頭脳明晰だったため、進学を許可。

名門・県立宇都宮中学校を経て上京、巡査をしながら明治大学夜間部を卒業した苦学生の彼は、1927年に当時最難関と言われた高等文官試験に見事合格し、同年内務省に入省。

麻布六本木や万世橋の警察署長を務めた後、満州に渡り新京の警察部長等を経て、福岡県警察部特高課長や福井県官房長を歴任。

そして戦時中の1943年7月に沖縄県警察部長・・・つまり現在の沖縄県警本部長として現地に赴任しました。

そして戦況が悪化した翌年7月、閣議で沖縄県民10万人を県外に疎開させることが決定。

 

しかし当時の県知事(後に何度も東京出張を繰り返した挙句、出張中に香川県知事への辞令が出され赴任・・・というより逃げ出した、島田知事の前任者)や県の有力者は軍部の宣伝を信じて日本の勝利を疑わず、疎開に理解を示そうとはしませんでした。

そこで新井部長は、

「我々警察官は常に最悪の状況を念頭に置いて対処しなければならない。 あらゆる機会を捉えて疎開の意義を周知して欲しい」

と訴え、警察部を総動員して講演会や住民集会などを積極的に開催し、説得に奔走。

そして7月17日には県庁職員や警察官の家族752人を率先して疎開させ、県民に範を示しました。

県議会から 「警察部長の独断専行だ」 と非難されても怯まず、毅然とした態度を貫く彼の姿を見て協力者・理解者が増え、9月末までに約3万5千人、翌年3月までに約7万3千人の疎開を実現。

そして翌1945年4月にアメリカ軍が上陸してからも、彼は島田知事と共に住民を安全な場所に保護すべく県職員や警察官を指揮。

同年5月25日に本土の内務省に

「六十万県民ただ暗黒なる壕内に生く。 この決戦に敗れて皇國の安泰以って望むべきもなしと信じ、この部民と相ともに敢闘す」

という悲痛な電文を送信。

 

そして日本軍が首里から撤退した2週間後の6月9日に警察警備隊の解散を命じた後も県民の救助に奔走。

そして6月26日・・・赤痢の症状が重くなった荒井部長は、島田知事に抱えられるようにして島南端の摩文仁(まぶに)の軍医部壕を出て森に入っていく姿を目撃されたのを最後に、2人の消息は途絶えました。

 

       

残念ながら2人の遺体は今も見つかっていませんが、現在摩文仁の丘には、約20万人の沖縄県民の命を救った2人の碑が建てられています。

       

沖縄県民なら知らぬ人のないこの本土からやってきた〝役人の鑑〟2人に関して詳しく知りたい方には、こちらのご一読をお勧めします。

 『沖縄の島守 内務官僚かく戦えり 

(田村洋三・著 中央公論新社・刊)

 

       

 

公務員や、公務員を志望する若者に是非読んでいただきたい秀作です。

公式発表では6月26日が消息不明日とされていますが、同書によれば7月に入って洞窟内で生きていた島田知事と会ったと証言する人がおり、その方が数日後に自決した知事の遺体を確認したとのこと。

しかしその目撃者も、荒井部長の姿は見ていません。

 

命日は確定していませんが、沖縄県民のために命懸けで働いたお二方の冥福を祈るばかりです。笑3

 

 

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こちらの記事はhttps://ameblo.jp/warmheart2003/entry-12409829910.html?frm=themeより引用させて頂いております。