科学史3 発明編

写真 すでに青年実業家・発明家として著名だった31歳のエジソン

 本編に登場する若き革命児:ファラデー ベル エジソン イーストマン フォード 志賀潔 マルコーニ 野口英世

 現代の科学文明の礎が、ほぼ19世紀の末から20世紀初頭までに築かれたことは、間違いのないところだろう。その中心にいた巨人が、発明王エジソンだった。
 トーマス・アルパ・エジソンは、ニュートン生誕から2世紀余を経た19世紀の半ば、アメリカはオハイオ州に生を受けた。生まれつき体が弱く、頭が異常に大きいので、両親は病気ではないかと心配した。兄や姉は10数歳も上だったので、トーマスはいつも1人で遊んでいた。
 幼いころのトーマスは、少しでも分からないことがあると、ひっきりなしに大人に質問する癖があり、うるさがられた。そして、聞いたことが本当かどうか、実際に試すのだった。卵を温めると雛が生まれると聞き、自分でガチョウの卵を孵そうと、ずっと温めていたこともある。
 このエピソードからは、好奇心の強さと同時に、聞いた話を決して鵜呑みにしないエジソンの性格が、物心ついたころからすでに確立していたことが見て取れる。記憶力も素晴らしく、1度聞いた歌など、すぐに覚えてしまった。音に対する感覚の鋭さは、後に無数の発明に活かされることになる。
 6歳のとき、トーマスは火が燃えるとどうなるか知りたくて、焚火をして納屋を燃やしてしまった。父親は、激しく鞭で打ってトーマスを罰した。この一件は、トーマスの心に深い傷を残した。後にエジソンは、父親のことを語ろうとしなかった。
 このような失敗はしょっちゅうだった。ひもを斧で断ち切ろうとして、誤って左手の指を1本失ってしまったこともあった。たびたび罰せられたので、鞭は木の皮がすっかり剥げてしまったという。

 病気のため、トーマス少年は普通の子より2年遅い8歳で小学校に入学した。しかも、成績はクラスでも最低。好きなことには夢中になるが、嫌いなことには見向きもしないし、全然覚えない。特に、算数は全く駄目。担任には、
「お前の頭は腐っている」
 そう嘲笑われ、3カ月で小学校に行かなくなってしまった。
 話を聞いた母親は、学校に怒鳴り込んだ。その姿を見て、トーマスは母親の愛情を実感し、子ども心に、「この母親が自慢できる息子になろう」と誓うのだった。発明王エジソンの原点は、母の愛にあった。
 エジソンは幼いころから常にメモ帳を手放さなかったことで知られるが、この当時から、将来、自分の博物館や記念館が各地にできたとき、展示品が足りないと困るから、日記を残しておこうと考えていた。今日、エジソンに所縁の博物館は、百カ所近く存在する。少年時代の壮大な夢を、彼は生涯持ち続け、本当に実現したのだった。
 子供染みた妄想かも知れない。しかし、成功を繰り返しイメージし続けることが成功の第一歩であることは、ナポレオン・ヒルやマーフィーの成功哲学などでも、繰り返し強調されているポイント。スポーツのイメージトレーニングでも同様だ。潜在意識には、一度固定されたイメージを忠実に再現する性質がある。
 子どもは特にイマジネーションが強く、この能力に長けているが、年齢と共に、現実離れしたイメージを信じられなくなっていく。だがエジソンは、そのイメージを生涯保ち続けた希有の人だった。やはり、個人的な欲ではなく、母親を喜ばせたいという一念が原点にあったことが大きいのだろう。
 普通、息子が学校に行かなければ、世間体も悪いし将来も心配だし、何がなんでも学校に行かせようとするものだ。けれども、エジソンの母親は、中学教師だったこともあって、息子の可能性を信じ、自分で勉強を教えることにした。
 母親は、まず息子の興味に合わせ、実験科学の入門書を与えた。トーマスは、これに載っていた実験をひとつ残らずやってみた。トーマスは読書が大好きだったが、一方で、この年齢から活字を鵜呑みにしない懐疑心を持ち合わせていた。母親は、バートンの『憂うつの解剖』『科学の辞典』や、ニュートンの『プリンキピア』なども読み聞かせた。
 母親は科学書だけでなく、『ローマ帝国衰亡史』『英国史』『世界史』などの歴史書や、シェイクスピアやディケンズなどの古典も、息子に読んで聞かせた。いくらトーマスが読書好きでも、まだ10歳にならない子どもには難しすぎるように思われるが、母親は息子を子ども扱いしなかった。この教育方針が、トーマスの自立心を育んだのだろう。
 エジソン家は、湖を見下ろせる高い丘の上にあった。父親は、ここに展望塔を建て、母親はトーマスに観光客のガイドを任せた。トーマスは、これで働くことの面白さを覚える。
 トーマスは、続いて野菜の行商を始める。最初は、家で採れた野菜を売り歩いていたが、やがて近所の農家から仕入れるようになり、ついには友人を雇って八百屋を開くまでになった。
 もちろん、実験のほうも続けていた。母親の教育のもとで早くからその才能を発揮し、11歳のとき、すでに電信機を製作している。トーマスにとっての遊びは、事業と発明だった。
 人の適性や才能は、少年時代の遊びの中に、すでにその萌芽が見られる。だが、たいていの人は、周囲の無理解や些細な挫折に左右され、惜しいことに、せっかくの才能の芽を育てようとしない。
 親の愛情と信頼、成功イメージ、読書、実験、勤労。エジソンの受けた教育は、ひとつの理想的なモデルとして、もっと研究されるべきだと思われる。子どもは、自分の興味に環境が応えてくれるとき、驚くべき才能を発揮する。もし、学校に通い続けていたなら、後の発明王エジソンは無かっただろう。

 トーマスは12歳のとき、鉄道の新聞売り子となって働き出す。電信機を改良するための材料や資料を買うためだった。両親は、「実験のための費用ならいくらでも出す」と言うのだが、トーマスは思春期を迎えて、ますます自立心が旺盛になっていたのだろう、これを拒否している。
 列車を何度か往復して、ひと通り新聞などを売ってしまえば、もうやることはない。トーマスは、車両の手荷物室の一角を借りて、仕事の合間に化学実験ができるように工夫した。
 環境が無ければ、自分が環境を創る。これは、彼の青春に一貫する姿勢だった。
 電車は、片道3時間。午前中に目的地のデトロイトに着くと、夕方まで休み、夜に戻る。トーマスは、鉄道がデトロイトに着くと、帰りの時間まで、図書館で読書に没頭した。科学書から古典まで、ジャンルは問わなかった。毎日本棚1段ずつ、4年で1万2千冊もの著作を読破したという。
 エジソンの読書好きは大変なもので、大人になってからも、毎朝5誌もの新聞に目を通していた。あらゆるジャンルの新刊を毎日3冊は読破し、百科事典を常に愛読していた。
 図書館に通うかたわら、トーマスは市場にも顔を出した。安い野菜や果物があるとすかさず仕入れ、地元で安く売るのだった。店番は、助手のオーツに任せていた。毎日10ドル前後の売り上げがあり、1ドルは家に入れ、残りは実験の費用に当てた。
 創意工夫があれば、仕事と勉強の両立は必ずできる。学校に通わなかったトーマスにとって、鉄道での仕事は、始めての本格的な社会参加だった。後にエジソンは、このころが人生で最も幸福だったと振り返っている。
 そんなある日、汽車に乗り遅れそうになったトーマスは、彼を引っ張り上げようとした車掌に、両耳を強く引っ張られる。それ以来、トーマスは耳が遠くなってしまった。ほとんど無いに等しい学歴に加えて、両耳の障害という、2重のハンディを抱えることになる。
 しかし、エネルギッシュなトーマスにとっては、その程度のことは、何のブレーキにもならない。それどころか、自ら手荷物室で編集・印刷する週間新聞『ウィークリー・ヘラルド』を、車内で販売するようになる。15歳の少年が手作りしたこの新聞は、毎週4百部がほぼ完売したという。しかも、夜遅くに帰ってからは、電信遊びに熱中していた。
 ある日、トーマスは、線路で遊んでいた子どもを、間一髪のところで救出した。その子は、駅長の息子だった。駅長はトーマスに感謝して、お礼に彼を家に下宿させ、電信技術を正式に教えてくれた。トーマスはこの恩を忘れず、この駅長は、後にエジソンの会社で雇われている。
 3カ月ほどで電信技術を覚えたトーマスは、全ての仕事を辞め、通信手として事務所を開き、まもなく全米を渡り歩いた。通信手時代の始まりだった
 電信の仕事は、夜7時から朝7時までの夜勤だった。夜は列車が少ないので、実験や読書の暇ができる。ただし、サボっていない合図として、一定の時間に信号を交わす規則があった。トーマスは電信機を改造し、自動的に信号を得てるようにした。特許は取っていないが、これが事実上の発明第1号だろう。
 また、電気を金属板に流した『鼠取り器』も考案している。『電信記録再生装置』も製作している。後の発明のいくつかも、このころに考案したものだという。

 21歳のとき、エジソン青年はすでに、全米1の速さを誇る電信手として、その名を知られていた。だが、このまま電信手を続けるつもりはなかった。電信手も、社会に欠かせない立派な職業だが、彼は、自分の才能を、人類のためにもっと役立てたいと志していた。
 そんなある日、エジソンは、ファラデーの『電気学の実験的研究』に出会い、おおいに感銘を受ける。ファラデーは、13歳から働きながら、独学で科学者となり、28歳で鉄合金の研究、32歳で塩素の液化に業績を残した、若き天才だった。独学というところが、無学歴のエジソンを、おおいに刺激したと思われる。
 そして、エジソンは発明家として生きることを決断し、借金までして、特許第1号である『自動投票記録装置』を発明。が、これは採用されず、失敗に終わる。それでも、エジソンはめげなかった。
「自分に才能が無かったわけではない。だが、世間から評価されるには、世の中に必要とされているものを発明しなければならない」
 彼は自分の才能に自信を持っていたが、決して慢心せず、常に今の自分を超えることを心がけていた。だからこそ、挫折を教訓とし、バネに逆転させることができた。自己満足は、成功の最大の敵であろう。
 翌年には『ティッカー(相場表示機)』を発明するが、これも売れなかった。それでも、エジソンは諦めない。今度は『2重電信法』を開発する。だが、この実験も、助手の力不足のために失敗してしまう。
 たて続けの失敗で、一文無しのホームレスになったエジソンは、ひと切れのパンも買えず、お茶をめぐんでもらって、飢えをしのいだこともあった。このみじめな姿が、人類の幸福を願い、借金まで重ねて、崇高な挑戦を続けた結果だった。
 発明王エジソンでさえ、これほどのどん底の時代を免れなかった。彼が、後に世界最大の企業を創立することになるとは、誰が予想できただろうか? 若者の可能性は、見た目では絶対に分からない。
 エジソンは、通信手仲間を頼って、どうにか会社の一室を身を寄せられることになり、ホームレス生活を脱することができた。人間、誰しも運が向かないときはある。そんなときに頼りになるのは、才能や資産ではなく、人との信頼関係しかない。
 エジソンが泊まり込んでから数日後、朝起きると、何やら会社が騒がしい。この会社は、金相場の通報を仕事にしていたのだが、通報機が故障してしまったのだった。エジソンは、難無くこれを直してしまった。驚いた社長は、エジソンを技師として採用する。
 だが、この会社も、まもなく倒産してしまった。エジソンは、電気技師のポップと共に『ポップ・エジソン社』を設立。この会社で電信を続けるが、「人類のために発明する」という志を忘れることはなかった。毎日4時間の睡眠で、研究に取り組んだ。
 まもなく、エジソンは他の会社にスカウトされ、『ティッカー』の改良に取り組んだ。さらに、『電報印刷機』『電報スイッチ』『改良電報機』などを、次々と発明する。そして22歳のときには、なんでも電報で印刷できる『万能印刷機』を発明。
 しかし、これらでさえ、後の発明ラッシュの前触れに過ぎなかった。冬の時代は過ぎ去りつつあり、春の祭典が始まろうとしていた。

 翌年、『ティッカー』の特許を、社長がエジソンから4万ドルで買い取った。それを資金に、エジソンは『ティッカー』の製造工場を設立する。ここでも、エジソンはさまざまな発明に取り組んだ。この工場だけでも、7年間で122の特許を取っている。24歳のときには、飛行機のデザインにも着手している。また、『レミントン・タイプライター』『印字電信機』を発明。
 エジソンは、人を見る目も確かだった。ある発明家の助手を工場長にスカウトして、3カ月のうちに、生産を2倍に上げたこともあった。能力給や週休2日制の導入さえ検討していた。
 エジソンが部下に対して求めたのは、必要なときに必要な資料や材料を直ちに用意できること、そのためのベースとしての記憶力だった。採用試験では、歴史や地理、科学の分野を中心に、雑学クイズのような問題を出していた。その中には、小学生でも分かるような質問も含まれていた。つまり、いかに日常のちょっとしたことまで注意深く覚えているかを、チェックしたのだった。
 25歳のときには『自動印刷電信機』『電信機用テープ』『鑚孔機』『2重電信法』『4重電信法』『電気ペン』『複写機』などの開発に取りかかる。この年だけで37件、翌年には35件の特許を取得している。
 エジソンは、これらの研究のために、積み上げたら1メートル50センチに及ぶ本を読破し、2千回もの実験を重ねた。考え事に夢中になって、自分の名前を忘れることさえあった! 毎日18時間働き、食事や睡眠のときでも、作業机を離れることはなかった。
 エジソンは、実験の最中でも、疲れたらその場で仮眠をとった。15分も眠れば、生き返ったように実験を再開したという。彼は、その生命力の秘訣について、
「とにかく睡眠と食事の量を減らし、体を締め付けるような服装をしないこと」
 だと語っている。1日3食を提唱したのも、エジソンだった。体調の優れないときは、食事を抜いていたという。
 27歳のときには、ついに『2重電信機』の発明に成功する。これは『4重電信機』『多重式自動電信機』に発展し、1分間に3千5百語を送ることを可能にした。
 28歳のときには、『印字電信機』『高声電話機』『複写機』『自動ペン』『火災報知器』『パラフィン紙』などを、次々と発明。ここまでで、エジソンの特許は2百を超えた。
 ところがこのころ、エジソンを電信関係の発明から撤退させる事件が起きた。実は、ある実業家に『4重電信機』の工場を売り渡したのだが、この実業家は全く代金を支払わず、訴訟にも失敗して、電信業界は、この実業家に独占されてしまったのだ。
 エジソンは、悪徳業者を儲けさせるような発明をする気をなくした。しかしこれが、エジソンの情熱を、他の分野に向けさせるきっかけとなる。

 29歳のエジソンは、世界初の独立した研究所を設立する。大学の充実した研究設備に縁の無かった、無学歴のエジソンにとって、これは何よりの念願だった。ここに、在野に埋もれた研究者や技術者が集められ、世界的な発明が生み出されていくことになる。
 彼自身も、さっそくベルの発明よりずっと性能のいい『炭素送話器』を発明する。翌年には、これをさらに改良して『電話機』を発明。厳密な意味での発明者は、29歳の若手科学者ベルだったが、これを商品として実用化したのは、エジソンだった。約2千の材料をテストし、時には60時間ぶっ続けで実験を続けたという。そのあいさつの単語である『ハロー』も、ついでに発明した。
 この年には、『蓄音器』も発明している。耳の悪いエジソンは、音を調べるために、歯や指を直接機械につけた。耳が悪いことで、かえって音を物理的に捉えることができたのだった。『蓄音器』の実験が成功し、機械から自分の声が聞こえてきたときには、エジソン自身、その無気味さに背筋が寒くなったという。
 この発明以降、エジソンは、自分を通じて「何か」が発明をさせているという思いが強くなったという。彼は教会にこそ通わなかったが、あらゆる宗教の経典を読破していて、「人間の祈りは宇宙をも動かす」と信じていた。その信念が、不可能と思われる発明に挑む原動力だったのだろう。優れた科学者ほど、宗教を軽視しない。
 その翌年には、『電灯』の開発を目的に『エジソン電灯会社』を設立、6週間で開発してみせると大見得を切った。しかし、1年余りをかけ、1千5百以上の材料で実験しても、思わしい成果を得られない。大学教授たちは、一様にエジソンの挑戦を無駄と決めつけた。マスコミも、宣伝ばかりでいっこうに結果を出せないエジソンを叩いた。
 だが、不眠不休の開発の末、32歳のときに、ついに『電灯』を発明。初めて『電灯』の実験に成功した10月21日は、今でもエジソン記念日とされている。最終的には、6千種もの植物を取り寄せ、京都の竹が最もフィラメントに適していたという。『バッテリー』『真空ランプ』『炭素フィラメント』の特許も取得している。翌年には、『磁気選鉱法』『電気照明用システム』『電車』を発明。
 しかし、その道程は、決して平坦なものではなかった。例えば『電灯』の開発では、これ1つの発明のために、なんと5万回もの失敗を繰り返している。これでは天才どころか大馬鹿だ。むしろ、ここまで愚直にひとつの課題に集中できる、とてつもない容量の悪さこそが、彼の優れた発明の秘密だった。
 エジソンほど多くの優れた発明を残した天才はいない。と同時に、エジソンほど多くの失敗を繰り返した天才もいない。それが天才の真実だった。汗と涙の積み重ね無しに成功した人間は、どこにもいない。失敗こそ、成功への最短距離なのだろう。
 しかし、いくら『電灯』があっても、電気が無ければ、何の役にも立たない。当時は、まだランプの時代。このままでは、5万回の失敗も、ただの失敗で終わってしまう。そこで、彼は35歳のとき、「エジソン電気照明会社」を設立し、『発電所』そのものを開発する。当然、世界初だった。
 『発電所』というハードと『電灯』というソフトの両方を、エジソンは1人で普及させた。20世紀の社会に電気が普及したのは、間違いなく、エジソンがいればこそ。彼は、この年だけでも75の特許を取っている。
 ちなみに、エジソンが『電灯』を発明した翌年には、26歳のジョージ・イーストマンが、写真撮影技術を確立。翌年独立し、カメラ「コダック」で、世界的な成功を収めている。若き天才エンジニアたちが、近代産業社会の礎を築いてきたのだった。

 そんなエジソンでさえ、永遠に不滅ではありえなかった。
 49歳のときには、33歳の若き天才技術者フォードと、自動車の動力について論争している。フォードは、29歳ですでに、ガソリンエンジンの点火実験を成功させていた。エジソンは当初、電気動力を主張していたが、結局は、フォードの主張するガソリン動力に賛同している。世代交代の波には、エジソンでさえ抗えなかった。
 また、エジソンは直流電気に固執して、発展しつつあった交流の危険性を強調するキャンペーンを張っている。かつて、大資本が若きエジソンに対してとったアンフェアな態度を、今度は彼がとることになった。もちろん、この争いはエジソンの敗北に終わった。
 新世紀の1901年には、27歳の若手発明家グリエルモ・マルコーニが、無線で大西洋を挟んだ通信を成功させ、大きな話題となった。
 マルコーニは、わずか21歳で『無線電信』の実用化に成功していた。若き天才発明家の登場は、かつてのエジソン登場以来のインパクトを、世間に与えた。大御所エジソンをさしおいて、若きマルコーニが、ノーベル物理学賞を受賞することになる。
 ちなみに、同じ01年には、25歳の若手医学者野口英世が、蛇毒の研究で、全米にその名を轟かせている。そのわずか4年前には、27歳の若手研究員だった志賀潔が赤痢菌を発見し、世界的なニュースとなっている。日本の学術水準の高さを世界に知らしめたのも、若き天才学者たちだった。
 そして、世代交代にとどめを刺す、若者たちの手による大発明が、エジソンが56歳を迎えた、1903年に成功する。
 その若手発明家たちの名は、ウィルバー&オーヴィル。実の兄弟だった。姓は、ライト。

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