週間版【今日の歴史】(9月30日〜10月6日)戦争に油断は命取り

週間版今日の歴史もいよいよ10月に・・・・ってなんで4月からいきなり飛んでるんでるんだという話ですが、まあ事情はお察しということで。
因みにTwitter版はちゃんと毎日更新しているので、 間の空いている期間はそのうち月間版にでもして埋めたいと思います。

☆  9月30日 鉄血宰相ビスマルク(1862年)

 1862年の今日プロイセンの宰相ビスマルクは、議会でドイツの統一は多数決ではなく鉄と血によって為されるという演説を行った(鉄は武器、血は兵士の比喩)。

1848年のドイツ3月革命の失敗に習い、多くの諸邦に別れたドイツは議会による民主的な大同団結は不可能だということを示唆したのだった。
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特に当時のドイツはオーストリアを中心に統一を図ろうとする大ドイツ主義とプロイセンを中心としようとする小ドイツ主義が凌ぎを削っており、伝統的な強国であるオーストリアに対してプロイセンはその力を示さなければならないという事情もあった。


それゆえに鉄血宰相と揶揄されたビスマルクは、議会軽視と激しい反発を受け、結果としてその予算は否認されてしまった。
これに対しビスマルクは議会を閉鎖。軍事予算の執行を強行した。
果たして予算承認なしで軍拡を進めたプロイセン軍は、翌年デンマークを、更に66年にはオーストリアを、そして70年にフランスを下し、見事その言葉通り鉄と地によってドイツ統一が成し遂げられたのだった。

☆  10月1日 アレキサンダー大王の栄光(BC331年)

BC331年の今日、アレキサンダー大王はガウガメラの戦いでダレイオス三世率いるアケメネス朝ペルシアの大軍を破った。
既にイッソスの戦いで敗れていたダレイオス三世は、帝都ペルセポリスやバビロンなどの帝国中枢を守る為ティグリス川北のガルガメラ平原に帝国全土から集めた大軍を集結させていたが、数の少ないマケドニア軍は夜襲をかけてくるものと考え夜通し警戒させていた為、その軍は疲弊していた。

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しかしアレキサンダー大王は正々堂々の決着を望み、自ら先頭に立って数倍ものペルシア軍に騎兵突撃を敢行。ペルシア軍の隊列の隙を突き崩し、ダレイオスは敗走した。
 

こうしてアケメネス朝は滅亡し、大王は史上初めてヨーロッパとアジアの征服者となった。
西インドに兵を進めた大王は、更にアラビアをも征服しようとしたが、しかし熱病によりガウガメラの戦いの7年後に僅か31歳でその偉大な生涯を閉じたのだった。

☆  10月2日 取れるものなら、来て取ってみろ!(1835年)

1835年の今日、テキサスに入植したアメリカからの入植者に不穏な動きがあることを察知したメキシコ軍は、対インディアン戦の為ゴンザレスの町に配置してあった大砲を接収しようと試みた。
しかし地元の民兵らは自己防衛の権利があるとしてこれを拒否。
メキシコ軍と地元民兵と衝突したことをきっかけにテキサス独立戦争が始まった。
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この時大砲に書かれていた”come and take it(来てとってみろ!)”という文字は後に、自己防衛のため武装を正当化するアメリカの精神を表すものとして、後に銃所持の正当化とそのスローガンとなり、今に至るまで使われている。

☆  10月3日 アレシア二重包囲戦(BC52年)


ガリアに遠征したカエサルに対し、ガリア諸部族はウェルキンゲトリスクをリーダーに反ローマの狼煙をあげた。
ガリア軍のゲリラ戦に苦戦したカエサルだったが、追撃してきたガリア軍に逆襲しウェルキンゲトリスクをアレシアで包囲することに成功した。
ガリア軍はウェルキンゲトリスク救出の為大規模な救援軍を組織。
カエサルはこれを迎え撃つ為、まるでドーナツのように街を取り囲む包囲陣地と救援軍を迎え撃つ防御陣地を構築した。

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古代稀に見る二重包囲戦の末救援軍は撃破され、BC52年の今日ウェルキンゲトリスク率いるガリア軍はカエサルに降伏した。

この勝利でローマはガリアを征服し、ガリアはその属州となった。
一方ガリアの富と戦力を手に入れたカエサルは一躍ローマ最大の実力者の一人にのし上がったのだった。

☆  10月4日 逆転、又逆転(1636年)

カトリックとプロテスタントが血で血を洗う戦いを繰り広げたドイツ30年戦争は既に20年目に入っていた。
カトリックの名将ティリー公や皇帝軍総司令官ヴァレンシュタイン、そしてプロテスタントの盟主スウェーデン国王グスタフアドルフも既にこの世を去り、ドイツ全土は荒廃の極に達していた。

戦局はネルトリンゲンの戦いでスウェーデン軍を撃破した皇帝軍が勝利まであと一歩というところまで来ていたが、1636年の今日、劣勢のスウェーデン軍がヴェットストックの戦いで皇帝軍に対し大逆転勝利を挙げた。

この一戦で30年戦争の戦況は再び逆転。
撤退途中だったスウェーデンは再びドイツへの侵攻を再開し、勢いづいたフランスなどの反ハプスブルグ同盟軍も反撃に転じた。
これによって皇帝軍は挟撃されズルズルと敗退を繰り返すこととなった。

戦争は更に12年続いたが皇帝軍が再び戦況を逆戦することは最早なかった。

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尚関係ないが、戦いの行われたネルトリンゲンの街は、隕石の落ちたクレーターに作られた防壁に囲まれた円形の街で、あの「進撃の巨人」の舞台のモデルとも噂されている。

☆  10月5日 ヴァンデミエールの将軍(1795年)

テルミドールの反動でジャコバン派の指導者ロベスピエールらが処刑された後、政権を握ったテルミドール派だったが民衆の困窮をよそに贅沢三昧を繰り返し、その人気は地に落ちていた。
彼らは次の選挙で自分たちが有利になるよう法律を改正するなどした為、反発した王党派や民主派が蜂起し、ヴァンデミエールの反乱をおこし国民公会などを占拠した。

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1795年の今日、急極まった政府を救ったのがフランス革命政府副官のナポレオンだった。
彼は街中で砲兵を使うという奇策で烏合の衆の王党派の反乱の鎮圧に成功。

この事件で名を馳せたナポレオンは国内軍総司令官に任命され、ヴァンデミエールの将軍の名で一躍革命の英雄となったのだった。

☆  10月6日 戦争に油断は禁物(1973年)

第三次中東戦争で僅か6日間でイスラエルに完敗したエジプトのサダト大統領は着々と復讐の機会を伺っていた。
彼はソ連の援助で軍備を整える一方、戦争の準備が整っていないように装いイスラエルを油断させた。
そして1973年の今日ユダヤ暦の安息日ヨム・ギプールの日、エジプト、シリア軍はシナイ半島、ゴラン高原の二方向から同時にイスラエルに奇襲攻撃をかけたのだった。

Unknown-1イスラエル軍はこの攻撃を当日まで全く予期しておらず、ようやく戦争の危機に気づいたのは数時間前だった。
第四次中東戦争と呼ばれるこの戦いは、緒戦の奇襲によってアラブ連合軍優勢に進み、特にソ連製の対戦車ミサイルAT3と対空ミサイルSA6が猛威を奮って、イスラエルの戦車隊と空軍を封じ込めた。

しかし初戦の敗北から立ち直ったイスラエルまもなくシリア戦線で反撃を開始。
苦境に陥ったシリアを救う為攻勢に出たエジプト軍も逆に撃破されてしまい、全戦線でイスラエルが反攻に転じることになった。
こうしてイスラエルの反撃が始まると、米ソの仲介もあり戦争は開戦から僅か20日で終結した。

しかし緒戦でイスラエルに大打撃を与え無敵神話を打ち破ったことは中東情勢に大きな影響を与える事になった。
元々現実主義者だったサダトの狙いはイスラエルの滅亡ではなく、軍事力を誇示して交渉によってシナイ半島を取り返すことだった。
そして実際6年後、キャンプデービット合意によりエジプトはイスラエルを承認することと引き換えにシナイ半島を交渉によって奪還することに成功したのだった。

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